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小槌
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Vol.56  「長崎・五島列島 キリシタンの歴史探訪旅行


2025/5/13

 

5月1日から6日まで、家族で長崎・五島列島をめぐりました。

 
 今回の旅行の本来の目的は、コールアカデミーOBのグノーの会として、五島列島の教会でグノーのミサなどを歌うことでした(写真1)。
 

写真1.演奏会チラシ
写真1.演奏会チラシ

 
 旅行の中で、長崎・五島列島の歴史、特にキリシタンの歴史に触れて感慨深いものがあったので、歴史の流れの中で、訪れた場所を紹介したいと思います。
 
 5月1日(木)に長崎に入り、長崎歴史文化博物館を訪れました。1549年にイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸して以来、平戸・長崎・有馬を中心としてキリスト教は全国的に広まりました。一時期、長崎がイエズス会の管理下おかれたことも知りました。「キリシタン」とは、ザビエルが日本に伝えたキリスト教およびその信者のことをさすポルトガル語由来の呼び名です。長崎は、徳川時代の鎖国政策の中にあって、ホルトガル・オランダ・中国などと交流があり、独特の文化を作り上げています。博物館には、昔の奉行所の風景も展示されていて、お正月には毎年踏み絵が行われていたことも知りました。
 
 1日の夜は、低身長外来研究会で共同研究をしている きのしたこどもクリニック院長の木下英一先生ご夫妻とお会いして、楽しく日本料理をいただきました。
 
 2日は、ガイドさん付きで長崎の観光旅行。長崎のもう一つの顔は、世界で2番目に原子爆弾を落とされた都市ということです。最初に、原爆落下中心地碑に行きました(写真2)。この地点の500m上空で原爆が爆発し、約7万人が亡くなりました。近くに、投下地点で奇跡的にたった一人助かった少女が逃げ込んでいた防空壕もありました。この広場は、先日亡くなったローマ法王フランシスコ教皇が、2019年に核廃絶を訴えて祈りをささげた場所です。平和公園、原爆資料館をめぐり、原爆の悲惨さ、恐ろしさを身に染みて感じました。その後新地中華街で昼食を取り、眼鏡橋、出島、グラバー邸など、長崎の有名な観光スポットを巡りました。
 

写真2.原爆落下中心地碑
写真2.原爆落下中心地碑

 
 以後は、キリスト教の布教、迫害、殉教などの歴史のながれで、訪れた場所を紹介したいと思います。ザビエル以後、九州を中心にキリスト教が広まり、五島列島には1566年にアルメイダとロレソンが訪れ、奥浦に五島最初の教会が建ちました。しかし、1587年に豊臣秀吉が伴天連追放令を発布すると、全国で信者たちは迫害を受けました。1597年には、長崎西坂の丘で26人のキリスト教徒が殉教し、これらの出来事は「長崎の殉教」として海外にもよく知られています。私たちが2015年ホルトガルを旅行した時、ポルトのサン・フランシス教会に26人の殉教が展示されていたのを思い出しました。6人の宣教師と20人の日本人は、京都で石田三成に捕らえられ、大阪から長崎まで歩かされて処刑されました。西坂の丘に26人の像があり、皆晴れ晴れとした顔をしています(写真3 5月2日)。この中には、五島列島で生まれたヨハネ五島もいました。後にローマカトリック教会により聖人に列せられ、日本26聖人と呼ばれることになりました。この西坂の丘には、1981年ヨハネ・パウロ2世、2019年にフランシスコ教皇と2人のローマ法王が訪れています。
 

写真3.西坂の丘の日本人26成人の像
写真3.西坂の丘の日本人26成人の像

 
 徳川幕府も1614年キリスト教禁止令を出し、宣教師の追放、信者の取り締まり、処刑が行われました。迫害の中で、信仰を守り続けるために表向きは仏教徒を装いながら密かにキリスト教を信じ続ける人々を潜伏キリシタンといいます。1797年に五島の藩主が、五島列島の開墾のために大村藩に農民の移住を願い、約3000人のキリシタンが五島列島に移住しました。
 
 大浦天主堂は、正式には「日本26聖殉教者聖堂」と言い、1862年に26人の殉教者たちが聖人に列せられたのを受け捧げられた教会で、西坂の丘に向かって建てられています。まだ禁教令の中、外人用として1864年に建てられました(写真4 5月1日)。1865317日に、大浦天主堂のフランス人プティジャン神父のもとに浦上から15名の男女子どもが訪れ、自分たちはキリスト教徒であることを告白しました。これは、「信徒発見」としてすぐローマ法王に報告されました。「信徒発見」のレリーフがありました(写真5)。このことはすぐに広まり、「7代目に神父様がやってくる」と言い伝えのある五島列島からも、多くの信者が訪れました。大浦天主堂は、2018年に世界文化遺産として登録されましたが、その建物にではなく「信徒発見」の場所としての登録だという事です。天主堂の正面には、信徒発見の記念としてブティジャン神父がフランスで作らせた「日本之聖母」と名付けられたマリア像が祭られています(写真4)。
 

写真4.大浦天主堂
写真4.大浦天主堂

 
 明治になっても、明治政府は天皇制国家を築くため振動を重視し、キリスト教は引き続き禁教とされ迫害されていました。その中でも、1868年の五島列島久賀島の迫害は酷いものでした。12畳の狭い場所に男女別に子どもも含めて188人が押し込まれ、立ったまま8か月間監禁されました(五島崩れ)。42人が亡くなり、久賀島・牢屋の窄の殉教として墓標と共に記念碑が建てられています(写真6 5月4日)。同年浦上の信者たちは3394人が20藩に流配され、拷問や苦役が1972年まで続きました(浦上4番崩れ)。
 

写真5.信徒発見
写真5.信徒発見

 

写真6.久家島・牢屋の窄の殉教記念碑

 
 欧米を歴訪した岩倉具視使節団は、各国より宗教の自由を強く求められ、毎時政府はついに1873年禁教の高札撤去を決定し、禁教令は259年ぶりに効力を失いました。こうして潜伏からカトリックへの復帰をする信者がいる一方、カトリックに復帰せずに先祖代々の信仰形式を守った人たちもいます。彼らは「かくれキリシタン」と呼ばれ、「禁教が解かれたあともカトリックに戻らず独自の信仰を続けている人々」を指します。
 
 禁教令撤廃後、続々と教会が建設されました。信者が流配から戻った浦上では、1879年に最初の聖堂を建て、1914年には東洋一の大聖堂が完成しました。浦上天主堂は原爆の爆心地からわずか500mの距離にあり、ほぼ直撃を受けて壊滅しました。がれきの間から右の頬が黒く焼け焦げているマリア像の上半身が見つかりました。「被爆マリア像」として、世界を「巡礼」し、戦争・核兵器の悲惨さを伝える象徴となっています。浦上天主堂は、1966年に完全再建されました(写真7 5月1日)。
五島列島でも多くの教会が建設され、現在48の教会があります。私たちはそのうち13の教会をめぐってきました。
 

写真7.浦上天主堂
写真7.浦上天主堂

 
 1877年に福江島の堂崎に来たマルマン神父は、初めての子どもたちのための「養育院」を建てました。また「伝道学校」も作られ、下五島の伝道の中心地となりました。1908年に、五島に初めての洋風建造物として、赤レンガの堂崎天主堂が野原与吉・鉄川与助によって建てられました(写真8 5月3日)。庭には、西坂の丘で殉教した聖ヨハネ五島が十字架にかかった像がありました。
 

写真8.堂島天主堂
写真8.堂島天主堂

 
 五島列島に建てられている教会の多くは、鉄川与助により建てられています。1907年に建てられた冷水教会は、鉄川与助が棟梁になって初めて手掛けた木造教会です(写真9 5月6日)。鉄川与助は、天井が高くできなかったのが不満だったそうで、以後の教会は十分な高さを取っています。
 

写真9.冷水協会
写真9.冷水協会

 
 その後、毎年のように教会を建てており、1910年に建てた「青砂が浦天主堂」は、鉄川与助が手掛けた2つ目のレンガ造り教会です(写真10 5月6日)。1916年に建てた「大曾教会」は、旧木造教会を移築しレンガ造りに建て替えたものです(写真11 5月5日)。旧教会は、「土井の浦教会」として建てられており(写真12 5月5日)、併設されている「土井の浦教会カリスト記念館」は、潜伏時代からかくれ時代の若松地区のキリシタン関連資料が展示されていました。十字架や御像、オラショ、信仰の対象としてきた「アワビの貝殻」など興味深い資料が陳列されていました。
 

写真10.青砂が浦天主堂
写真10.青砂が浦天主堂
 
写真11.大曾教会
写真11.大曾教会
 
写真12.土井の浦教会
写真12.土井の浦教会
 

 建築資金が乏しかったために10年かかって1919年に完成した「頭が島教会」は、柱がなく船底天井で広い空間が感じられました。祭壇の右側にマリア像、左側にキリストを抱いたヨゼフ像があり、ステンドグラスも外と中では模様が異なるように作られていました(写真13 5月5日)。「中の浦教会」は、1925年建てられた木造教会で、対岸から眺めると教会全体が水面に映りこみ、「水鏡の教会」とも呼ばれています(写真14 5月5日)。庭にはマリア像が置かれています。これらの教会の多くは、世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に登録されています。ほとんどの教会にマリア像があり、マリア崇拝が信仰の中心になっていると思われました。 
 

写真13.頭が島教会
写真13.頭が島教会
 
写真14.中の浦教会
写真14.中の浦教会

 
 さて本来の旅行の目的である演奏会の1つ目は、5316時30分より、福江教会で行われました(写真15 5月3日)。第1部はアッシジ祝祭合唱団による混声合唱で、モーツァルトのAve verum corpus、アルカデルト、シューベルトのAve Mariaなどを歌いました。第2部は我々グノーの会の男声合唱で、三澤洋史先生のAve Mariaのあとに、オラショのひとつ「らおだて」を歌いました。オラショは、キリシタン用語で「祈り」の意味です。潜伏キリシタンが、元々はグレゴリアン聖歌などの宣教師の祈りを、耳でおぼえて代々受け継がれてきたものです。そのルーツは、音楽研究家の皆川達夫先生の研究で、「Laudate Domino」が元歌であろうと推定され、その「Laudate Domino」も続いて歌いました。最後に十八番のグノーの第2ミサを歌いました。アンコールは全員で、グノーのAve Mariaを歌い、聴衆から大きな拍手をいただきました(写真16)。
 

写真15.福江教会
写真15.福江教会
 
写真16.福江教会での演奏会の後で
写真16.福江教会での演奏会の後で

 
 2つ目の演奏会は、55日仲知教会で行われました(写真17)。我々が到着したときにいただいた、シスターが作ってくださった「ふくれまんじゅう」は、特別な時に砂糖を使って作るもので、心が込められたとてもおいしいまんじゅうでした。演奏曲目は福江教会と同じですが、中通島はカトリック信者が人口の4分の1という地域で、辺鄙な場所にも関わらず、島の南から車で1時間かけて聴きに来てくれた人もいました。熱心に聞いてくれて、我々も真剣に歌いました(写真18)。グノーのミサが終わった時は、シスターが大きな声で「アンコール」と叫び、我々も気持ちよくグノーのAve Mariaを全員で歌いました。素晴らしい響きの教会で、信者の方々の前でミサ曲を歌うという貴重な体験は、自分でも感動するものでした。
 

写真17.仲知教会
写真17.仲知教会
 
写真18.仲知教会での演奏会
写真18.仲知教会での演奏会

 
 打ち上げも終わった部屋での飲み会で、次はどこへ歌いに行こうかと熱心に議論している、元気な爺さんたちでした。
 

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