院長コラム
Vol.43 「令和の始まりに、ヴァチカンで歌う -グノーの会 イタリア演奏旅行-」
東京大学音楽部コールアカデミーのOB合唱団の有志で組織した「グノーの会」は、2017年にパリのマドレーヌ寺院とサンジェルマン教会で演奏会を開きました。今回、イタリアのアッシジの聖サンフランチェスコ教会とヴァチカンの聖ピエトロ大聖堂でミサを奉唱し、ローマの聖ジローラモ教会でコンサートを開く ことになりました。
歌うのは私を含め31名、家族も含め約50名のツアーになりました。私も、妻と二男、四女を連れていきました。この様な企画を実現したのは、グノーの会の団内指揮者の酒井さんと元シスターの小池さんが運営している旅行会社のステラコーポレーションの熱意によるものです。
4月26日(金)
午前8時に家を出ましたが、東名高速上り線が用賀付近で通行止めになった影響を受け、羽田空港まで2時間と、いつもの倍以上の時間がかかりました。JALでは、何時ものように映画の見ダメで、「ボヘミアン ラプソディー」「踊る大捜査線3」「メリーポピンズ リターンズ」を観ました。ロンドン経由でローマに着いたのが夜10時頃で、Hilton Airpot Hotelで皆と合流しました。
4月27日(土)
9時にバスに乗り、アッシジへ(写真1)。世界遺産にも登録されているアッシジは、フランシスコ会の創始者である聖フランシスコの出身地として知られ、聖フランシスコと聖女クララのゆかりの町で、キリスト教徒の巡礼の町としての性格を持っています。レストランで昼食後、町中はバスが入れない為、8人乗りのタクシーに分乗して、フランシスコが祈りを捧げたり、瞑想したりした地のカルチェリの庵まで山道を登りました。カルチェリは、聖フランシスコが修行を積んだ12世紀と変わらず緑に囲まれ、鳥の鳴き声が聞こえ、心静まる場所でした。
その後、明日ミサを奉唱する聖フランシスコ大聖堂を見学しました。斜面に建てられた大聖堂は、上下2つの聖堂からなり、下堂はロマネスク様式、上堂はゴシック様式で建てられており、内部は多くのフラスコ画が描かれています。上堂のジョットによって描かれた「聖フランシスコの生涯」の壁画が有名です。
ホテルは、フラスコ画家の名前からつけたHotel Giotto Assisiで、部屋には広い バルコニーが付いていて、美しい穏やかな田園風景が一望できました(写真2)。夕食はホテルで食べましたが、前菜にスパゲッティ、主菜に肉料理と、我々にとっては量の多い食事でした。
4月28日(日)
いよいよ12時のミサ奉唱。10時30分のミサに参列した後、聖フランシスコ大聖堂の上堂の一番前に整列して軽く練習。すぐにミサが始まり、我々グノーの会は入祭の歌「よろこびたたえよ」,「Kyrie(グノー)」「アレルヤ」、奉納の歌「Tout puissant(プーランク)」,「Sanctus(グノー)」,聖体拝領の歌「O Salutaris(グノー)」,閉祭の歌「いざよろこべ」を歌いました。1時間ほどのミサでしたが、あっという間に終わってしまった感じでした。聖堂はよく響き、和音を楽しみながら、気持ち良く歌えました。聴いていた辛口の妻からも、「とても感動的だった」とお誉めの言葉。「ブラビー」の声も聞かれたとか。満足な演奏でした(写真3)。
その後、レストランで昼食だったが、前菜にペイネ、主菜に串焼きとまた大量に食べている間に、持病の麻痺性イレウスが起こり始め、ローマへの帰途のバスでは、横になって帰りました。当然夕食はなし。
4月29日(月)
午前9時から午後3時までローマ市内観光の予定でしたが、私は体調を整えるためにホテルで休んで、午後3時からの聖ジローラモ教会での練習から合流しました。聖ジローラモは、ラテン語の聖書を編纂した聖ヒエロニムスのことで、「聖ヒエロニムスの受難」の絵が掲げられていました。
午後6時30分から演奏会は、100人程の会場はほぼ満席になりました。ローマでデザイナーをしているマサッチョ(大野さん)や、ポルトガル大使館勤務の高川さんも、聴きにきてくれました。マサッチョには、2011年、2013年のイタリア旅行の時に、高川さんには2015年のホルトガル旅行の時にお世話になっています(院長コラム参照)。
第一ステージは、世界の宗教曲と題して、シューベルト(ドイツ)のドイツミサ、プーランク(フランス)の聖フランシスコのための4つの小さな祈り、藤原義久(日本)の法華懺法、ラバネロ(イタリア)の荘厳ミサの、それぞれ一部を演奏しました。井川緋奈さんのパイプオルガン演奏の後に、第二ステージとして、グノーの第二ミサをパイプオルガン伴奏で、全曲演奏しました。この教会のパイプオルガンは、普通の音程 より半音低く、我々トップテノールにとっては歌いやすいはずですが、スタミナ不足で後半響きが下がってしまったのは残念でした。それでもスタンディングオベーションもでて、聴衆には喜んでいただいたようでした。アンコールの「野ばら」と「遙かな友に」は、良く歌えたと思います
(写真4)
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ホテルの近くのレストランで9時から始まった打ち上げパーティーには、高川さんやマサッチョも参加して、バイオリン演奏や「Va' pensiero」の歌で大いに盛り上がりました。体調不十分な私は途中でホテルに引き上げましたが、パーティーは、誕生日の祝いや歌で午前1時頃まで続いたそうです。
4月30日(火)
平成最後の日は、午後5時のミサで歌う予定なので、奇しくも時差の関係で日本の5月1日の午前0時にあたり、「令和」の始まりに、ヴァチカンの聖ピエトロ大聖堂で歌うことになりました。システィーナ美術館、礼拝堂の観光も行うため、朝9時30分にシスティーナ美術館に入りました。ガイドの遠藤さんの話では、今日は観光客が思ったより少なく、約3万人(!)とのこと。中に入ったら、やはり芋の子を洗うような状態で、私は3回目の来館でしたが、今までで一番混雑していました。一人ひとりイヤホンガイドを渡されて、観光を開始しましたが、大勢の人ごみの中を、約50人の団体が移動するので大変。それでも、ガイドの遠藤さんの巧妙な説明で、中世からルネッサンスの宗教画を楽しみました。昼頃にカフェテリアで昼食を食べて、しばらく中庭で休息しました。
午後1時頃から中庭のポスターで、システィーナ礼拝堂の説明を受け、また人ごみの中に突入していきました。タペストリーのギャラリー、地図のギャラリーを抜け、ラファエロの間の「アテネの学堂」を観賞してシスティーナ礼拝堂にたどり着いたのは14時30分頃。ミケランジェロの「最後の審判」は、何回見ても感動的です。その後お土産を買ってついに15時30分頃に、聖ピエトロ大聖堂に入りました。
聖人ペトロが逆さ十字架に磔にされて殉教した地の上に建てられた長さ200mの大聖堂の内部もミケランジェロのピエタ像、ベルニーニの4体の聖人像・バルダッキーノ(大天蓋) (写真5a)など、芸術品の宝庫です。大天蓋からみえる一番奥の司教座の上には、窓に鳩のシルエットがあり、周りの光が差し込んでいるところは、ガラスではなく石で作られているそうです(写真5b)。それらを見て回って、少し休んで16時15分に一番奥の司教座の左手前にある聖歌隊の場所にスタンバイして、発声練習(写真6)、パイプオルガンとの合わせの練習など行いました。17時の鐘を合図に、我々が歌う入祭の歌「よろこびたたえよ」で司祭様が入場し、ついにミサが始まりました。我々以外に、4~5人の男性の聖歌隊が横に立ち、ミサに合わせてユニゾンの歌を挿入して行きましたが、その声の素晴らしいこと!私が今ヴォイストレーニングを習っている本間先生にいつも求められている「イタリア人の発声」とはこのことか、と実感する声でした。我々は、奉納の歌"Tout puissant(プーランク)"を歌い、聖体拝領の時には会場もほぼ満席に近くなり、"O salutaris"を、3回繰り返して歌いました。閉祭の前に司祭様より我々を紹介していただき、会場から大きな拍手を頂きました。閉祭の歌「いざよろこべ」でミサは恙無く終わりました。昨日から体調を整えていた甲斐あって、声は良く響き、気持ち良く歌えました。横で歌っていた聖歌隊の男性から「Good job! Tenor!」と握手を求められて、上手く歌えた事を実感しました(自画自賛)。キリスト教徒でない私でも、聖ピエトロ大聖堂で令和の始まりに歌うことができたことは、感動的な体験でした。この演奏旅行を推進した酒井さん、三木さん、ステラコーポレーションの小池さんに感謝です。
流れ解散後、家族4人と樋口先生夫妻、藤本先生、水野さんと、有名なサバティーニへ行って食事しました。開放的な外のテーブルで食べた、白身魚のカルパッチョ、エビのリゾットは美味で、体調も回復したので久々に白ワインがすすみました(写真7)。
5月1日(水)
皆はローマで定番のコロッセオやトレビの泉などの観光に出かけましたが、私と妻は既に行ったことがあったので、別にガイドを頼んで、カラヴァッジョとベルニーニ廻りをしました。ガイドは4年前にローマ に来た時にもお願いした山中さん。ボルゲーゼ美術館の予約時間まで、スペイン広場で美しいツツジを見ました(写真8)。
ボルゲーゼ美術館は、若くして枢機卿に任じられたシビオーネ・ボルゲーゼが、法王から広大な土地をもらい、そこに収集した美術品を展示した館がそのまま美術館になっています(写真9)。中には螺旋階段しか無いので、入場制限されており、入るには予約が必要です。ここには、ベルニーニが20歳代に製作した「ダヴィデ」(写真10)「アポロとダフネ」「プルセルビーナの略奪」など、ギリシャ神話を題材にした素晴らしい作品を見ることが出来ました。またカラヴァッジョが、ローマ に出てきた時の初期の作品や、教会に頼まれて書いたがあまりに現実的、写実的で拒否された作品「馬丁たちの聖母」などもありました。カラヴァッジョは、周りとの協調性がなく、喧嘩して殺人を犯し、追われてあちこちに匿ってもらったところに、作品を残したとのこと。最後はローマ法王に恩赦を願いに行く途中で、熱病で亡くなったそうです。
半裸でソファに横たわるナポレオンの妹の彫像(写真11)がありますが、シビオーネ・ボルゲーゼの息子が、ナポレオンの妹と結婚したためだそうです。ナポレオンの時代に、ここの美術品の一部はフランスへ持って行かれ、今でもルーブル美術館の一部にボルゲーゼ・コレクションとしてあるそうです。
その後食事をしましたが、頼んだムール貝のスパゲティーの麺は、讃岐うどんのように太くて腰がありました(写真12)。その後、ナヴォーナ広場でベルニーニの「4つの川の噴水」(写真13)をみて、サン・ルイジ・ディ・フランチェージ教会へ行きました。そこにはカラヴァッジョの三部作「聖マタイと天使」「聖マタイの召命」「聖マタイの殉教」が並んでいました。その後聖アゴスティーノ教会で「ロレッタの聖母」、聖マリア・デル・ポポロ教会では、「聖ペテロの磔」「聖パウロの改宗」と、カラヴァッジョ巡りをしました。カラヴァジョはいままで、ウフィツィー美術館の「バッカス」ぐらいしかあまり知りませんでしたが、写実的な宗教画の迫力に圧倒されました。
5月2日(木)
皆はナポリ、ポンペイの遺跡に出かけましたが、私と妻はシエナを目指してHotel Ciceroniを出発しました。明日の夕方にフィレンツェで合流するまで別行動です。Hotel Ciceroneは、三流ホテルで、ウオシュレットや歯ブラシ、スリッパが無いのは当然のことですが、洗面所にコップはない(持ってきたコップはプラスチック)、トイレの流れは悪い、風呂の排水栓は壊れている、エレベーターに乗るのに段差がある、1日はベッドメイキングもしていませんでした。
10時にガイドの中田さんと運転手のアントニオが迎えに来て、最初の目的地チヴィタ・ディ・バニョレッジョまで約2時間。ここは、地震のために村の部分以外は陥没しており、天空の城ラピュタの舞台といわれているところです。住む人が徐々に少なくなり、現在では7人しか住んでおらず、「消え逝く町」といわれています。手前から見る風景は、天空の城そのもので、真ん中に聖堂の塔が聳え立っています(写真14)。新しく作った長い細い道を渡って村まで行くと、中央に広場があり、古い聖堂が正面にあります。その聖堂で、週に1日は、住んでいる人が集まって、ミサが行われているそうです。現地ガイドのスザンナの話では、地震の時に剥がれた壁から聖母マリアのフラスコ画が現れ、村人たちは、聖母マリアが村を救ってくれたと感謝して綺麗に祀ったと、流ちょうな日本語で説明してくれました(写真15)。村の裏側からは、崩れてむき出しになった山肌を見ることが出来ます。
その次に行ったのも「世界一美しい丘上都市」「天空の町」といわれているオルヴィエート。高い丘の上に高い壁に囲まれています(写真16)。丘の下から地下道を掘って、丘の上に家を建てたので、地下道が張り巡らされているそうです。ここにも町の中心に大聖堂が聳え立ち、当時のキリスト教の力と金の大きさがわかります(写真17)。昼食後、シエナに向かいました。
シエナは、歴史地区が1995年に世界遺産に登録された、美しい町です。シエナに4時半頃入り、先ずまた大聖堂見物(写真18)。ローマを作ったと言われるロルムスとレムスの双子の、レムスの双子の息子(セニウスとアスキウス)が、父が殺されて逃げ出し、同じように狼に育てられ、後にシエナを作ったという伝説があります。町中にオオカミの乳を飲む双子の像があり、大聖堂の床にも、大理石モザイク装飾による絵が見られました(写真19)。ここには、ミケランジェロやベルニーニによって作られた彫刻もあり、当時の教皇が名だたる芸術家を集めて作らせたことが伺えます。
その後、パリオで有名なカンポ広場を散策しました(写真20)。パリオは、年に2回開かれる裸馬による競馬で、17ある町内から毎回10の町内が参加できるそうです。広場を3周半の競走は1分半で終わりますが、一斉にスタートするまでの各馬の調整に30分以上かかるそうです。周りの家のバルコニーは、見物席として300~400ユーロで売られます。勝ったチームはそれから3ヶ月間お祭り騒ぎをするので、勝と貧乏になるそうです。カンポ広場から今日宿泊のGrand Continental Hotelにはいりました。
シエナには、私が小児医療研究センターの研究室長をしていた時、1991年より3年間研究員としてイタリアから来ていたClaudio de Feliceがいるので、前もって連絡をとっておきました。Claudioは、ホテルに会いに来てくれて、25年ぶりにつもる話に花が咲きました(写真21)。
5月3日(水)
今日はシエナからピサ、そしてフレンツェへの旅です。
午前中は、シエナの古文書博物館を見学しました。古いブックカバーが年代順に展示されており(写真22)、税金の書類や病院のカルテと共に、戦いの時に砦の中に残る兵士と、食料を節約するために砦の外に出される女と子どものリストなど、興味深い文書が並んでいました。
シエナからピサへ行く途中、雄大なトスカーナ地方に広がるサン・ジミニャーノのブドウ園(写真23)で昼食をとりましたが、サラダにはロゼのスパークリングワイン、トリュフのスパゲティには、ご当地の白ワインベルナッチョ、生ハムとチーズには赤のキャンティ・クラシコが出てきました。キャンティ・クラシコに貼ってある雄鳥のマークについて、ガイドの中田さんが面白い話を聞かせてくれました。昔都市国家のフィレンツェとシエナが戦ったとき、お互いに朝雄鳥が鳴いたら戦闘を始めようという取り決めをしていました。フィレンツェは、雄鳥に餌をやらなかったので雄鳥がお腹がすいて朝早く鳴いたため、早く攻め込んで勝ったという話です。あのキャンティ・クラシコの雄鳥マークは、フィレンツェの戦勝記念のマークという事です。運転手のアントニオにも食事を勧めましたが、食べると眠くなるといって、サラダだけを頼みました。しかし出てきたのは、ボール山盛りの生野菜。アントニオは、オリーブオイルをかけ、レモン1個を絞っておいしそうに全部平らげました。
ピサでは、やはり大聖堂。また斜塔では定番の写真を撮りました(写真24)。斜塔は、立て始めたときから傾きはじめ、しかし取り壊すこともできないのでそこからバランスをとりながら建てたため、バナナの形で曲がって建っています。そのために観光の名所になっているのですが。
シエナからフィレンツェに行って、ホテルで皆と合流しました。夕食は近くのレストランで皆と食べましたが、大きなTボーンステーキがでてきて、食べきれませんでした。
5月4日(木)
午前中は、皆とサン・マルコ美術館へ行きました。もとはドメニコ会の修道院で、1400年代終わりにファイレンツェ住民の華美な身だしなみを非難し、教皇と対立して火刑に処された修道院長サヴァローラが有名です。ここは2008年に訪れた時に非常に感動的だったフラ・アンジェリコの描いたフラスコ画「受胎告知」(写真25)に再開し、新たな感動を覚えました。サン・マルコ広場から大聖堂まで歩いて行って、今日帰国する私たち家族4人は、そこで皆と別れてタクシーでホテルに戻りました。
昼頃にフィレンツェ空港まで行き、Air Franceでパリのドゴール空港経由で、約3時間の待ち合わせの後にJALに乗り込みました。ドゴール空港で、元虎の門病院の薬剤師の鎌田さんにばったり出会ってビックリ。JALでは、「七つの会議」、クリント・イーストウッドの「運び屋」、レディー・ガガの「アリー/スター誕生」を見ました。
長い旅でしたが、ヴァチカンで歌うという感動的な体験と、イタリアの田園風景、天空都市を楽しんだ旅でした。また、どこの都市にも100年以上かけて建てた大聖堂があり、キリスト教の権力と財力の大きさを実感した旅でもありました。
当院から様々なジャンルのコラムを発信しています。
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