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小槌
院長コラム

Vol.25  「スペイン紀行」


2013/5/10

 
 ゴールデンウイークに、妻が行ったことがないというスペインに一緒に行ってきました。
 4月28日、成田からJALでパリまで飛んで、乗り換えてまずマドリッドまで行きます。JALではいつものように、「レ・ミゼラブル」「リンカーン」「東京物語」と話題の映画を楽しみました。パリでの乗り継ぎに3時間半も待ち時間があり、待ちくたびれました。
 
 マドリッドに夜の10時頃に着きましたが、小雨が降っていて、気温10℃と肌寒い気候でした。迎えにきてくれた女性ガイドの清水さんによると、この前までは半袖を着るぐらい暖かかったのが、また寒さがぶり返したとのこと。早速スペインは失業率が27%で、特に若者の失業率は50%を超えているため、若者にとっては仕事もできない、結婚もできない、家も持てないという、未来に希望のない状態になっているという話や、消費税21%、所得税20%で普通の生活も大変だという話をききました。30分ぐらいでインターコンチネンタル・ホテルに着いて、直ぐにベッドに入り眠ってしまいました。

 4月29日朝9時、外は4℃と寒く、着られるだけ着込んで出発しました。まずスペイン広場に行きました。ここには「ドン・キホーテ」の作者セルバンテスの彫像と、その前にドン・キホーテとサンチョ・パンサの銅像があります(写真1)。セルバンテスは、若い頃戦争で片腕を失い、その後も牢獄に2回もつながれるという悲惨な生活だったそうです。54歳の時に書いた「ドン・キホーテ」が大ベストセラーになり、そのおかげで幸せな晩年を送ったとのこと。1616年に亡くなりましたが、以前イギリス旅行をした際、ガイドの池本さんが「シェークスピア、徳川家康、セルバンテスといろいろ(1616年)死んだと覚えて下さい」と言っていたのを思い出しました。その後王宮を外から眺めている時に、中庭で兵隊が訓練しているのが見物でき、ガイドの清水さんは「何回もここへは来ているけれど、これは初めて見た」と、喜んでいました。
 

写真1・2

 
 それから今日のメーンエベントのプラド美術館へ行きました。もう一人の現地ガイド(フィレンツェでもそうだったが、スペインでは、観光の説明をする時にスペイン人のガイドが必要だという決まりがある)のJesusさんが、前もってチケットを買って待っていてくれたので、長い行列をせずに直ぐに入ることができました。ここでは、プラド三大巨匠のベラスケス、グレコ、ゴヤの絵を主に見て回り、清水さんから色々と説明を受けました。ベラスケスの傑作は、なんと言っても門外不出の「ラス・メニーナス(女官たち)」(写真2)。絵の中のベラスケス本人の胸にある勲章の印は、元々は描かれていませんでしたが、ベラスケスが亡くなってから、フィリポ四世がその功績をたたえて描き加えたとのこと。軟骨無形成症のマリア・ベルボラの右隣のニコラも19歳という話を聞いて、下垂体機能低下症だったのだなと思いました。ゴヤの有名な「着衣のマハ」と「裸のマハ」が並べて展示してありました。「マハ」というのは人の名前だと思っていましたが、「熟女」という意味の方言だとのこと。ゴヤは、20人の子供を授かったが一人を除いて皆亡くし、また40歳すぎて聴力をなくして精神的にもおかしくなった時の「黒の絵」シリーズは不気味なものがありました。しかし晩年は40歳も年下の女性と同棲して、最後の作品はその女性と思われる穏やかな女性の肖像画でした。独特な色彩と人物画のグレコの作品も多数ありました。その他、ムリーリョの「よき羊飼い」(写真3)、ルーベンスの「三美神」、ボッスの「快楽の園」など有名な絵が多数あり、もちろん1日では見きれません。
 

写真3・4

 
 昼頃には切り上げてソフィア王妃芸術センターへ向かいました。ここは近代美術館として、ダリ、ミロ、ピカソの絵が有名ですが、ちょうど「ダリ展」が開催されており、有名な作品が世界中から集められていました。ダリの作品には何らかの主張があると、清水さんが色々と解説してくれました。やはり我々凡人には理解し難いところが多かったですが、なかなか見応えがありました(写真4)。ピカソの有名な「ゲルニカ」は、1937年に空爆で7000人の村人のうち半数が命を失った村の名前です。その年のパリ万博のスペイン館の入口の壁画を依頼されていたピカソが、急遽テーマを変えて壁画ではなくキャンバス画として製作したために、万博後スペイン館は取り壊されてしまいましたが、絵画として残ったとのこと。
 
 昼食は、清水さんにバルに連れて行ってもらって、イカ、タコ、エビなどの海鮮料理に舌鼓をうちました。その後、免税店で息子に頼まれていたロナウドとメッシのユニフォームなどを買いました。ホテルに戻って休んだあと、夕食は8時から昼間行ったバルの二階にあるレストランでパエリアのコースを頼みましたが、前菜のホタルイカのフライや、マッシュルーム、サラダの量が多く、またパエリアも水分が多く二人で食べきれない量で、食傷気味になって帰ってきました。

 30日は、スペイン特急Altariaでグラナダに向かいました。一等車を頼んだためか、飛行機のビジネス・クラスのように、駅ではラウンジでくつろげ、乗ったら朝食を持ってきてくれて、映画の「アルゴ」が観られるというサービスぶりでした。しかしグラナダまでは、特急で4時間半という長旅で飽きました。
 
 グラナダに着くと、女性ガイドの 圓野さんが迎えてくれて、直ぐに修道院を改築したホテルにチェックイン。その後圓野さんと、遅めの昼食をバルでタパスをつまんで済ませました。現地ガイドのMariaさんと合流して、まず王室礼拝堂へ行きました。グラナダは、13世紀イスラムのナスル王朝の首都として栄えていましたが、キリスト教徒のレコンキスタ(国土回復運動)により1492年にフェルナンド二世とイザベル女王により陥落した最後のイスラム都市で、それ以後スペインは、キリスト教徒によって支配されることになります。16世紀にエンリケ・デ・デガスによって建てられた王室礼拝堂の祭壇には、「グラナダ陥落」と「ムーア人の改宗」の浮き彫りがあり、霊廟にはフェルナンド二世とイザベル女王の棺が安置されていました。隣には約180年かけて建てられた大聖堂があります。高さ45mのドームがあり、二台の素晴らしいパイプオルガンが中央の上部に設置されていました。この日はあとホテルのレストランで、イベリコブタのハム、アンダルシア・シーフードなど、前菜だけ食べて終了。

 5月1日は、グラナダでのメーンエベントのアルハンブラ宮殿見学。私は10年以上も前に一度来たことがあるのですが、ガイドの 圓野さんの説明を聞きながらの見物は、また新鮮で楽しく見物することができました。アルハンブラ宮殿は、13世紀にイスラムのナスル王朝ムハンマド一世により着工され、約170年かけて建てられたもので、王宮、カルロス5世宮殿、アルカサバ(兵士の住居となっていた要塞)、ヘネラリフェ(離宮)からなります。イスラム建築の最高峰といわれ、幾何学模様や精密な透かし彫りなどそれは見事なものです。綺麗な庭園には、この時代貴重だった水をふんだんに使った噴水や池が配置されています(写真5)。総面積1万4000m2もある敷地内には、サンフランシスコ修道院を改築したパラドール(国営ホテル)もあり、カフェテリアはまだ開いてなかったのですが、現地ガイドのMariaさんの尽力で、おいしいコーヒーを飲むことができました。
 

写真5

 
 昼食は、アルハンブラ宮殿から谷をへだてたアルバイシン地区まで行って、テラスから宮殿を眺めながら生ハムメロンなどを食べました。この地区は、もともとイスラム教徒の居住区で、白い壁が特徴的で、最近またイスラム教徒が住むようになり、モスクも作られていました。
 
 そのあと、バロセロナに行くためにグラナダ空港に向かいました。グラナダの空港は、地方空港特有のターミナルから地上を歩いて飛行機のタラップまで行くというのどかな風景でした。しかしバロセロナ空港ではタラップとの接続が悪く、到着してから飛行機を降りるまで20分以上もかかるという有様で、さすがスペインという感じでした。空港には、男性ガイドの清水さんが迎えにきてくれていました。早速専用車でホテルに向かいましたが、街中はメーデーのデモと、サッカーのヨーロッパ・カップの準決勝バルセロナ(バルサ)対バイエルンの試合のために大渋滞で、パトカーが横行し、だいぶ時間がかかってパレスホテルに着きました。メーデーのデモも、2時から4時までは休んで(シエスタ)、また4時から始めるそうです。スペインは、4種類の警察があるそうで、国の組織が2つ、地方ごとに1つ、市ごとに1つあります。それぞれ管轄が異なっているらしく、日本のように警察は「110番」に電話すればよいというようにはいかないようです。国の組織の1つは、フランコ独裁時代の軍隊が中心で、主に空港の警備などを行っているとのこと。そういえば、帰りのバロセロナ空港の税関が、その組織でした。夕食はそろそろ日本食が恋しくなったので、日本料理店「やしま」に連れて行ってもらい、冷奴、焼き鳥、揚げ豆腐などに舌鼓を打ちましたが、味噌汁はいただけませんでした。結局ヨーロッパ・カップで、バルサはメッシも出場せず惨敗して、街全体が落ち込んでいるようでした。

 5月2日はガウディづくしで、まずグエル公園に行きました。公園のあちこちに、ガウディ特有の遊歩道や広場が作られ、鳩やオウムがあちこちに巣を作っており、散策するには快適な場所です(写真6)。 ガウディはグエル伯爵の依頼で、この土地に未来都市を作るために設計して作り、更に60戸の家を作って売るつもりでした。しかし実際は2戸しか作られず、ガウディ自身とグエル伯爵の顧問弁護士が住んだそうです。楽しい公園なので、今なら直ぐに売れたと思いますが、100年前では発想が斬新すぎたのでしょうか。広場には白い布の上にグッズを並べて販売している潜りの商売人があちこちにいましたが、警官が巡回に来たら、慌ててすばやく白い布にグッズを包んで、サンタクロースのように背中に担いで逃げ出していました。
 

写真6・7

 
 次に訪れたサクラダ・ファミリア(聖家族教会)には私は既に2回来ており、20年以上も前に最初に訪れた時は、出来ていた8つの塔以外はまだ工事現場で、10年位前に訪れた時は天井ができつつあるところでした。今回ほぼ完成している内部を見て、感動してしまいました。中央に十字架にかけられたキリストが空中に浮かんでおり、高い天井は少ない柱とガウディ独特の放射状のアーチで支えられ、支えている4本の柱には、福音書を書いたマタイ、ヨハネ、ルカ、マルコの名前が記されています(写真7)。内部は5500人入ることができ、合唱隊700人の席も2階に作られています。今まで多数のカテドラルに入りましたが、どのカテドラルとも異なる独特の空間で、その中にいると、キリスト教徒になってもいいかなと思わせる力が感じられました。2010年11月に法王ベネディクト16世が訪れた時は多くの人々が集まり、サクラダ・ファミリアは教会堂からカトリック大教会堂(バシリカ)に格上げされました。
 

写真8

 
 最初に完成した生誕のファザード(鐘塔)は、キリストの生誕に関わるエピソード(受胎告知、エジプトへの逃避、キリストの生誕、羊飼いの礼拝、東方三博士など)の彫刻が彫られており、音楽を奏でる天使たちは、日本人彫刻家の外尾悦郎さんが製作したものです(写真8)。ガイドの清水さんは、バロセロナにきて36年ということですが、最初スペイン語学校で外尾さんと同じクラスだったそうです。外尾さんは、受難のファザードの彫刻を担当している地元カタルーニャのアーチスト、スビラックに師事して彫刻を習得し、今回の彫刻を任されたとのこと。受難のファザードは、スビラックにより製作され、最後の晩餐、イエスの裁判、鞭打ち、処刑、埋葬などが彫刻されており、入口の遥か上に復活した金色のキリストの像を見ることができます。正面の扉はまだ建築中ですが、その扉には55カ国語で祈りの言葉が彫られます。日本語で「われらの日ごとの食物を、きょうもお与えくさりありがとうございます」や「われらの父よ」という言葉が見えました。地下には礼拝堂ができており、ガウディのお墓もそこにありました。
 
 サクラダ・ファミリアは1892年より建設がはじめられ、現在8つの塔が完成していますが、最終的には18の塔で構成されることになっているそうです。其々の塔は、キリストの12使徒、4人の福音記者、聖母マリアおよびキリストを現し、一番大きなキリストの塔は170mの高さになるとのこと。完成予定をガウディが亡くなって(路面電車に轢かれて3日後に死亡)100年にあたる2026年としていますが、ガイドの清水さんも「まず無理でしょう」と言っておりました。完成してまだ私達が生きていたら、もう一度訪れてみたい場所でした。
 
 その後、日本料理店「遊」で清水さん、現地ガイドのGabrielさんと昼食を摂って、ガウディが建てた民間建築であるカサ・ミラとカサ・バトリョをまわりました。どちらもガウディ独特の曲線をベースにした造りで、屋上は兜をかぶった兵士の顔の形やキノコの形をした煙突が並んでおり、カサ・バトリョは瓦を竜の鱗に見たてて、龍を退治する剣に見たてた建築物まで作ってありました(写真9)。中庭に向いた窓は、光を入れるために下に行くほど大きくなっていたり、開閉できる空気取りがあったり、非常に細かい工夫がいたるところに見られ、とても100年前の建物とは思えませんでした。また家具や把手に至るまでガウディがデザインしているのも、見物していて楽しめました。カサ・バトリョも世界遺産に登録されていますが、上の階は事務所として使われており、一人だけ昔から家賃を払って住んでいるというのに驚きました。
 

写真9・10

 
 夜はコルドベスというタブラオで、ディナーとフラメンコショウを楽しみました。グラナダのガイドの 圓野さんが教えてくれたことによると、フラメンコはもともとエジプト方面から流れてきたジプシーとアンダルシア地方の民族舞踊が融合して生まれたもので、2010年に世界遺産に登録されたそうです。スペインは、イタリアについで世界遺産の多い国とのこと。ショウは、独特の歌の節回し、リズム、フラメンコギターの歯切れ良いタッチ、激しい踊りで、迫力があり楽しめました(写真10)。
 

 5月3日は、ランブラス通りからサンジュゼップ市場に入りました。肉屋、魚屋、八百屋、チョコレート屋、果物屋、ナッツ屋、オリーブオイル屋などありとあらゆる食料品店が所狭しと軒を並べていました(写真11)。オレンジピールのチョコレート、イベリコブタの生ハム、チーズ、オリーブオイルなどを買いました。魚屋に並んでいたペルセデス(亀の手)と呼ばれる珍しい貝は、この間読んだビッグ・コミックの、魚河岸三代目に出てきた食材でした(写真12)。
 
写真11・12
 
 そこからピカソ美術館へ向かいました。美術の教師だった父に少年時代から厳しく教えられたピカソは、14-5歳ごろから既に頭角を現し、その頃の絵はとても子どもが描いた絵とは思えないほどの出来栄えです。コンクールにも優勝していますが、この頃の作品は遠近法の技巧も素晴らしい写実的な画風でした。20代にパリに出てきてから画風が徐々に変わってきて、親友が亡くなったあとには、青の時代と言われるくらい色調の画ばかりになります。しかし、その後恋人ができると、明るい色調に変わり、そういう意味では心を単純に描いていた画家と思いました。その後キュビズムになり、プラド美術館で見たベラスケスの「ラス・メニーナス」を描いた58枚の連作は必見です(写真13)。
 
写真13・14
 
 カテドラルを見物してから海岸通にあるレストランMarinaで食事しましたが、お米の代わりにショート・パスタを使ったフィデアウというパエリアは、抜群の美味しさでした(写真14)。

 午後はモンジュイックの丘からバルセロナを眺め、1992年のオリンピックの会場を見物しました。カブト虫のような室内競技場は、日本人建築家の設計によるものだそうです。その後バルサの本拠地の10万人はいるサッカー場へ行きましたが、試合がないにもかかわらず、観光バスが多数きており、ショップは人であふれていました。ガイドのGabrielさんが「ヨーロッパ・カップで負けたので、グッズが安くなっているよ」言っていたとおり、ユニフォームが半額で売られていました。クリニックに子ども用のユニフォームを飾ろうと、1着買って背中に(10 Messi)のプリントをしてもらいました。 夜カタローニア美術館の前で噴水ショウがあるというので、また日本料理店八島で食事してから見に行きました。音楽に合わせて、大きな噴水が色や形を変えて吹き出る様は、なかなか見応えがありました(写真15)。
 
写真15
 
 5月4日午後、バロセロナからパリ経由で帰国の途につきました。
 今回は、場所ごとに日本人ガイドと現地ガイドがつきましたが、現地ガイドさんの名前はそれぞれGabriel、Maria、Jesusと、まるで「受胎告知」でした。これは、フランコ独裁時代に、宗教的な名前をつけるように規制されていたためだそうです。 現地ガイドがいると、どこの入場も並んでいる人たちを尻目に、別の入り口から入れたので、時間のロスも無く効率的な観光が出来ました。日本人ガイドさんたちは、それぞれ13年、26年、36年とスペインに生活しており、うち2人は国際結婚をして子どももいて、皆スペインに溶け込んでいるようでした。しかし男性の清水さんは、永住権は持っているが、国籍は日本のままだということでした。ガイドさんからいろいろ話を聞くことで、観光だけでなくスペインの実際の生活状況を知ることができ、やはりスペインの前途は多難であるということを実感した旅行でもありました。

 

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