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小槌
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Vol.13  「ウィーン紀行」


2010/5/24

 
4月のケルンでのフェリング社の国際シンポジウムは、アイスランドの火山の影響で、日本からの飛行機がキャンセルされたため、 日本からの参加者は誰も参加できなくなり、ヨーロッパの人たちだけで開催されました。1週間の思いがけない休暇は、映画を観たり、美術館巡りをして過ごしました。

 今回のウィーンでの国際シンポジウムも、少し雲行きが怪しかったのですが、なんとか行くことができました。2005年に行ったときにガイドをしてもらったフミ・コッツェンマッヒャーさんという日本人ガイドに事前に連絡が取れたので、今回もガイドを全面的に頼むことになりました。
 
 5月17日午前日本発、17日夕方ウィーン着。ホテルはウィーン中心部を囲む道路(リンク)の少し外側のヒルトン・ホテルで、到着後リンクの中央にあるシュテファン寺院まで歩き、帰りにホテルの近くの市立公園を散歩して、有名なシューベルトや金色のヨハンシュトラウスの像を眺めてきました。

 18日は、ドナウ川流域で最も美しいといわれるヴァッハウ渓谷巡りです。フミさんの手配してくれた車でウィーンから南西へ1時間行ったところに、11世紀にバーベンブルグ家のレオポルド1世が建て、18世紀にハプスブルグ家によって改装されたベネディクト派のメルク修道院があります。昔マリー・アントワネットがフランスのルイ16世のもとへ嫁ぐ途中で1泊したということでも有名です。メルク川を見下ろす丘の上に建てられ、1万冊の蔵書や絢爛たる付属教会には目を見張りました(写真1)。今でも若い人たちの教育を実際に行っているそうです。
 

写真1

 
 修道院のレストランで食べた名物のWiener Schnitzel(カツレツ)は、なかなか美味。メルクから遊覧船に乗って川下りを楽しみましたが、この渓谷は世界遺産にも登録されていて、岸辺には古城や古い教会が建つ小さな村が散在し、ブドウ畑が広がる美しい景色が続きます。天気が悪く、ときどき雨が降っていたのが残念でした。1時間ばかり下ってデュルンシュタインという小さな村で船を降りました。ここには、12世紀に十字軍遠征でオーストリアのレオポルド公の怒りをかったリチャード獅子王が幽閉されたケーンリンガー城跡や、ウェッヂウッドの陶器風な作りの聖堂参事会修道院教会があります(写真2)。旧市街にあるホテルのテラスからみるドナウ川の景色も素晴らしいものでした(写真3)。
 

写真2・3

 
 19日の午前中は、美術史博物館に行って、ブリューゲルの「冬の景色」「バベルの塔」「農民の婚礼」、ラファエロの「草原の聖母子」、フェルメールの「絵画芸術」、デューラーの「ベニスの若い婦人」、ベラスケスの「青いドレスのマルガリータ王女」などの名画を満喫しました。名画鑑賞に疲れ、2階ホールにあるカフェ・ゲルシュトナー(かつてハプスブルグ家御用達のケーキ店)(写真4)で、画家にちなんだブリューゲル・トルテを食べましたが、私にはちょっと甘すぎました。
 

写真4・5

 
 午後は車でウィーンの南の森へ。現在のリヒテンシュタインという国の祖先がもともと住んでいたリヒテンシュタイン城を外から眺め、あの有名な「菩提樹」をシューベルトが作曲したというレストランへ行きました。レストランの前には、堂々たる菩提樹が茂っていました。その壁には、最初の4小節が描かれていましたが(写真5)、「泉に添いて、茂る菩提樹」の歌詞のような「泉」は、周りにはありません。昔は今とは異なる風景だったと思いますが、泉はなかったと思われます。ガイドのフミさんに聞いてみると、「Am Blunnen vor dem Tore, da steht ein Lindenbaum」は「アーチ型の門のまえにある井戸のそばに茂る菩提樹」ではないかというお話。確か玄関にToreといえるアーチ型門があり、井戸もありました。これは日本語の誤訳だったかと思いましたが、考えてみれば作詞はミュラーなので、ここの場面と関係なくても良いということに後で気付きました。

次に行ったハイリゲンクロイツ修道院は、バーベンベルグ家のレオポルド3世によって建てられた戒律厳しいシトー派の修道院で、170年もかかって建てられたため、ロマネスク様式から途中でバロック様式に変化している建築様式が興味深いものでした。ここの修道僧によるグレゴリアン・チャンタが、最近日本でもヒットした癒しの音楽になっていると聞いて、早速CDを買いました。
 
その後マイヤーリングへ行きました。ここは、1889年1月30日に皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の一人息子のルドルフ3世が、奥さんがいるにもかかわらず17歳の令嬢マリー・ヴェッツェラと心中したとして一躍有名になった所です。映画「うたかたの恋」でも皇太子と愛人の悲劇として描かれましたが、実際は父ヨーゼフ1世との確執や、自分自身が梅毒に罹っていたことなどにより、行き詰まりを感じていたルドルフが、自殺の相手を探していたと考えられているようです。心中した「狩りの館」は、女子修道院に建て替えられて、一般公開されていました。

帰りは、モーツァルトの奥さんのコンスタンツがよく逗留し、またベートヴェンが難聴の治療に良いからとやぶ医者に勧められて逗留した温泉地のバーデンを通りました。ここは昔シンポジウムで、今は亡き親友の藤枝先生と来たことを思い出しました。
ウィーンに帰る途中で、ホイリゲに寄りました。ホイリゲでは、地元の人たちが歌いながら飲み、食べている状況を想像していたのですが、まだ時間が早かったせいか、お客は私たちしかいなかったため、予想と違って寂しいホイリゲでの食事でした。

20日から午前Meeting、演者との打ち合わせ、午後Board Meetingと1日忙しく過ごしました。。Board Meetingでは、日本の活動状況を発表しました。この日は前もってフミさんに頼んでおいた歌劇「椿姫」のチケットが手に入ったので、Meetingが終わってから妻と出かけました。オペラが終わってから、オペラ座近くの日本料理店「天満屋」で食べようと思っていたのですが、終わってからではラスト・オーダーに間に合わないので、前もって寿司の折り詰めを頼んで、終わってからtake outすることにしました。チケットはフミさんのおかげで、2階のボックス席の一番前で鑑賞することができました(1枚約15000円)。オペラはさすが本場、一人一人の歌手がレヴェルの高い歌声を聞かせてくれて、期待どおりの素晴らしい音楽芸術を聞かせてもらいました。最後のヴィオレッタが亡くなる場面は、感動ものでした。ホテルで寿司を食べながら、オペラの感動を妻と語り合いました。

21日から正式にシンポジウムが始まり、私は12時からの Meet-the-Professor sessionで、マサチューセッツ大学のDr. Pittelordの座長を務めました。すばらしい講演で、男性低ゴナドトロピン血性性腺機能低下症の治療のガイドラインを変えなければならないかと考えさせられるほどのインパクトがありました。また、ポスターで「SGA性低身長症の8年間のGH治療経験」を発表しました(写真6)。その後開かれたシンポジウムでのDr. DealとDr. Ross(10月の日本小児内分泌学会に招待されている)によるターナー症候群とクラインフェルター症候群の症例発表も勉強になりました。いくつになっても、勉強ですね。
 

写真6

 
この日のシンポジウムの間、妻はフミさんとフランツ・ヨーゼフ1世の孫のエリザベト(自殺したルドルフの子)のお墓を見に行っていましたが、墓地に着いてフミさんが管理人に訊ねたところ、今までフミさんがエリザベトの墓と思って今までガイドしていた墓は間違いで、別のところにあるといわれ、フミさんもびっくり。あわてて別の場所にあるお墓に行ったそうです。しかし、最初の墓地には有名な画家のクリムトや、明治時代にオーストリアの貴族に嫁いだ青山ミツコの墓もあったそうです。

21日のシンポシウムのプログラムが終了してから、日本から参加した人たちで、フミさんに勧められたウィーン料理店に行きました。そこのオーストリア人の大将に、「タナカさん、ビール?、ワイン?」と日本語で聞かれてびっくり。ビール、ワイン、旬のアスパラ、Wiener Schnitzelで、ウィーンの食事と会話を楽しみました。

22日もシンポジウムで座長を務めてから、シンポジウム途中で会場を後にし、帰国の途につきました。あわただしいながらも、勉強と観光を楽しんだ旅行でした。

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