院長コラム

top-p7.png top-p4.png top-p6.png top-p5.png top-p2_20220422201251121.png

HOME | 院長コラム | 院長コラム29

小槌
院長コラム

Vol.29  「フランス紀行:モン・サン・ミッシェルと藤田嗣治を訪ねて」


2014 /8/16

 
院長室に飾ってある美しいモン・サン・ミッシェルの版画を見るたび、いつかは行ってみたいと願う憧れの地へ、今夏念願かなって家族と共に行くことになった。また妻の希望のランスのフジタ礼拝堂の訪問も、今回の旅行の目的の一つであった。

8月7日10:35にJAL直行便で羽田空港を発った。約12時間の飛行の間、「アメイジング・スパイダーマン2」、「るろうに剣心」、「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」と映画を3本楽しんだ。

パリ空港ではガイドの中山さんが待っていてくれて、小型バスでパリ市内へ。飛行場を出たところに、引退した本物のコンコルドが飾られていた。思ったより小さくて窓の大きさも葉書ぐらいの大きさ。パリ-東京間を5時間半で飛行するので、通常の飛行機より高い3万mの高さで飛行するため、強度の関係で窓が小さくなったとのことだった。

オペラ座のすぐ横のインターコンチネンタル パリ ルグランホテルに着いて一休みした後、ガイドさんに教えてもらったオペラ座の前のカフェで食事。ロゼのシャンパンで、無事到着の乾杯をして、オペラ座を眺めながら食事を楽しんだ。
 

写真1・2

 
翌8日はいよいよモン・サン・ミッシェルめざす。昨日の小型バスで雨の中をオートルートA13号線で一路ノルマンディー地方へ。今日から11日までのガイドは、パリに36年住んでいるという相馬さん。途中美しいノルマンディー橋を見ることができた。昼頃にオンフルールに着いた時は雨も上がり、モネやルノアールなどの印象派の画家が題材にした可愛い小さな港町を散策した。入り口が木造の漁師のための教会(写真1)は、素朴で素敵だった。ヨット・ハーバーの周りにあるレストランの一つで、海鮮スープ、ムール貝(写真2)とシードル(スパークリング・リンゴ酒)で昼食を楽しんだ。昔ながらの木と漆喰で作られた街並みが残っており、500年前に建てられた木造りの教会の天井は、船底型だった。有名な作曲家のサティの生家(写真3)も公開されていた。さすがサマーバカンスで、訪れている外国人は多かったが、日本人はあまり見かけなかった。
 

写真3

 
 


 
オンフルールからモン・サン・ミッシェルまでは、約2時間半の道のり。この辺りは第二次大戦の激戦地で、途中通ったカンの町は、約98%が焼けて、教会や修道院が奇跡的に残ったという話であった。

モン・サン・ミッシェルに着いて、ホテル エルミタージュにチェックインした。ホテルは7室しかない小さな民宿のようなホテルだったが、部屋の中はデラックスで、リビングが吹き抜けになっており、階段で2階の寝室に上る。バスルームもトイレは別室で、シャワーとバスタブと別にある豪華なものだった。しかし、夜中のトイレは、1階まで降りて行くのでちょっと面倒くさく感じた。8時に夕食を予約してあるモン・サン・ミッシェルが正面に見えるホテルのレストランに行った。日の入りは9時35分なので、まだまだ明るく。モン・サン・ミッシェルは、灰色の空を背景に神秘的に鎮座していた。食事を注文している間に、局地豪雨が襲ってきて、全く何も見えなくなった。しかし食事が終わると雨が止み、モン・サン・ミッシェルの夜景を楽しむことができた。

モン・サン・ミッシェル(聖ミカエルの山)は、708年にオペール司教が夢の中で大天使ミカエルに、「この岩山に聖堂を建てよ」というお告げを受けて建て始められ、10世紀頃からベネディクト派の修道院の造営が始められ、約600年かけてほぼ現在の姿になった。14~16世紀の英仏百年戦争、宗教戦争では要塞として機能し、18世紀のフランス革命後は、監獄として使われていたとのこと。1979年に世界遺産に登録された。
 

写真4

 
9日は良い天気で、モン・サン・ミッシェル(写真4)の中の観光。もともとモン・サン・ミッシェルは島だったのが、道を作って潮の流れをせき止めてしまったために、砂が蓄積して島でなくなってしまった。これを元の島に戻すために、道を橋にする工事がずっと行われていて、もうすぐ完成するらしい。そのため、車では近くに乗り入れられないので、シャトルバスが運行されており、それに乗って城壁近くまで行った。城壁の中に入ると、要塞の名残の大きな門があり、その中は土産物屋やレストランの細い通りになっていた。昔巡礼をもてなすためにプラール夫人が考案した有名なオムレツのレストランもあり、準備中の台所には、卵が山と積まれていた。

坂道をフウフウ言いながら登って修道院に辿り着いたが、そこから更に長い登り階段が続いていた。西のテラスにたどり着くと、修道院の南側の風景や、島と陸をつなぐ道路を眺めることができた。中に入ると、修道院付属の教会、食堂、迎賓の間、聖マルタン礼拝堂、聖エティエンヌ大聖堂などがあり、最上階の列柱廊(ラ・メルヴェイユ)には、薬草が植えられていた。島の周りは遠浅になっており、沢山の人が裸足で砂の上を歩いていた。足の裏がスベスベになるらしい。昼はレストランでもちろんオムレツ(写真5)。ふっくらとしているがあまり味がなく、付け合わせのサラミと一緒に食べると美味しかった。
 

写真5

 
昼食後、名残惜しくもモン・サン・ミッシェルを後にして、一路パリに戻り、6時過ぎには前泊まったインターコンチネンタル パリ ルグランに到着した。ウェルカム・ドリンクと共に有名なミルフィーユを食べたが、とても美味しかった。夕食は、ホテルのカフェ・ド・ラ・ペで。このカフェは、オペラ座を設計したシャルル・ガルニエによって内装が作られているとのことで有名。

翌10日は、シャンパーニュ地方へ。ご存知のようにシャンパンは、シャンパーニュ地方で造られるスパークリング・ワインだが、その中でも有名なドン・ペリニョンなどを造っているMoet & Chandon社を訪れて、日本語の堪能なフランス人の女性に案内されて見学した。昔シャンパンを造ったドン・ペリニョンは、ルイ14世時代の修道僧(写真6)で、Moet & Chandon社のvintageのシャンペンにその名前が残ったとのこと。2代目のMoet氏はナポレオン一世と親しく、ナポレオンが訪れた部屋が皇帝の部屋として残されており、Moet & Chandon社のtraditionalシャンパンの名前は imperial。地下のワイン倉庫を案内されたが、そこにもナポレオンから寄贈された樽が飾られていた。Moet & Chandon社のtraditionalシャンパンは、味をなるべく変えないために、3年分のワインを混ぜて作っているが、vintageはその年のワインしか使ってないとのこと。地下倉庫は全長28kmというとてつもなく広い地下で、何百万本というシャンパンがそこに貯蔵され熟成されている。Moet & Chandon社のvintageのシャンパンは、そこで7-8年かけて熟成させるので、今販売されているvintageは2006年が一番新しいものとのこと。その他シャンパンの作り方などいろいろ勉強して、最後は美味しいシャンパンを試飲させてもらった(写真7)。
 

写真6・7

 
その後ランスに行って昼食を食べてから、世界遺産に登録されているノートルダム大聖堂を観光。ここは、微笑みの天使(写真8)が有名で、歴代フランス国王の戴冠の聖別式が行なわれている。またここで、画家の藤田嗣治・君代夫妻が1959年キリスト教の洗礼式を受け、嗣治はレオナルド・ダ・ヴィンチに因んだレオナールの洗礼名をつけた。第二次世界大戦でかなり崩壊したが修復され、シャガールの青いステンドグラス(写真9)が見事だった。
 

写真8・9

 
今日の一番の目的は、次に行ったフジタ礼拝堂(写真10)。戦後日本でひどい目に会い、日本を見限った日本人画家の藤田嗣治が1966年に建てた小さな礼拝堂で、ステンドグラスと壁のフラスコ画でうめつくされている。フラスコ画は、キリストの受難・復活、聖母マリアなどが描かれ、藤田自身と妻の君代さんも、信者として描きこまれていた。君代さんは藤田の死後約40年生きたが98歳で亡くなり、遺言により遺骨は藤田と共にフジタ礼拝堂に埋葬されている。クリニックにも絵をかざっているほど藤田の絵が好きな私達夫婦には堪らない場所で、自然と気持ちが高揚してしまっていた。それを見たガイドさんが、ランスの美術館に藤田の絵があるということで、予定にはなかったが連れていってくれて、更に5枚の藤田の絵を堪能した。
 

写真10

 
 
11日は、ルーブル美術館に行った。彫刻家でもあるガイドの相馬さんの面目躍如で、有名な「ミロのヴィーナス」、「サモトラケのニケ」やミケランジェロの「抵抗する囚人」(写真11)などを案内してくれた。また中世のルーブルや、ナポレオン三世の居住区など、今まで行ったことのないところも案内してくれて非常に興味深かった。有名なダ・ヴィンチ、ダヴィド、ベラスケス、ドラクロアなどを見たが、「モナリザ」の前は黒山の人だかりだった。あとはフェルメールの「天文学者」と「レースを編む女」を見たらもう腰が痛くなってギブアップ。とにかく広く凄い美術館で、ガイドの相馬さんも、「この美術館は、永遠に見きれません。」
 

写真11

 
その後パリに来るたびに行くオランジェリー美術館まで歩いて、壁一面のモネの睡蓮の鑑賞。10年ほど前に、藤枝先生と一緒に来たことを思い出した。私の好きなルノワールもたくさんあったが、マチス、ユトリロなど、有名な画家の絵も豊富にあったのには、少し驚いた。
夕食は、パリに留学中の吉井先生が予約してくれた日本料理店で一緒にすき焼き鍋をつつきながら、留学中の苦労話を聞いた。やはりフランス語が大変らしい。
12日午後は、相馬さんに教えてもらっていた近代美術館へ行って、藤田嗣治が戦前に留学していた時に描いた裸婦の絵(写真12)を見に行った。藤田の描く女性の肌の色は、とても美しく輝いていた。ここには他に、シャガールやピカソ、モジリアニなどの絵もあり、少し得した気分だった。その後凱旋門まで歩き、上まで登ろうと思っていたが、長蛇の列を見てあきらめた。
 

写真12

 
6時頃にパリ空港に行って、9:00のJALの羽田空港直行便で帰国の途についた。
フランスは最高気温も25度前後で、湿気も少なく過ごしやすかったが、日本に着いたらムッとする暑さだった。

院長コラム

当院から様々なジャンルのコラムを発信しています。