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小槌
院長コラム

Vol.34  「グノーの会 パリで歌う」


2016/5/8

 
大学時代より男声合唱団で歌っているが、男声合唱の宗教曲の大曲というと、ケルビーニのレクイエム、シューベルトのドイツミサ、グノーの第二ミサがあげられる。これらの曲は、我々も何度も歌ってきた。シャルル・グノーは、第二帝政時代のフランスの作曲家で、市立学校の音楽教授だった35歳の時に男声合唱曲第二ミサを作曲し、1853年6月にサンジェルマン・ロクセロワ教会で、自らの指揮で初演した。

東京大学音楽部の男声合唱団コール・アカデミーのOB合唱団としてアカデミカ・コールは活発な活動を続けており、2012年にはニューヨークのカーネギー・ホールでの演奏もおこなった。OB合唱団の中で昭和50年からに56年卒業したグループはグノーの会またはウボイの会として、合唱団の中心メンバーであるが、彼等を中心としてグノーが初演した教会で第二ミサを歌おうというと企画が持ち上がり、昭和41年から45年に入学した一二三&五会が合流して、新しいグノーの会が結成された。私は、昭和41年入学なので、今回の新グノーの会の最長老年代である。

当初約40名の団員が参加予定だったが、昨年のパリのテロの影響で数名の参加取り止めがでた。私の妻は「何かあったら、クリニックの始末をしなければならないので、一人で行ってらっしゃい」と言っていたが、「そんなこと言わないで、一緒に死んで頂戴よ」と頼み込んで、やっと一緒に行くことになった。結局合唱団員33人、指揮者1人、その他ピアニスト、団員の家族など含めて全部で57人がパリに向かうことになった。
4月29日11時5分羽田発の全日空で、パリに飛び立った。いつものように、映画の見溜め。見損なった「スターウォーズ フォースの覚醒」、教会にはびこる子どもたち絵の性的虐待をあばいた評判の「スポットライト」、吉永小百合ファンの私には見逃せない「母と暮らして」の3本を見た。

約11時間で着いたパリは曇り空で寒かった。ホテル マリオット オペラ アンバサダーに夕方の6時半頃着いたが、ポーターがスーツケースを間違えてもう一人の田中(雅)の部屋に運んでしまったため、持ってくるのに1時間以上もかかってしまった。夕食に出かけたのは8時過ぎていたが、一二三&五会のメンバーと、ベルギービールとムール貝を楽しんだ。
 

写真1・2

 
翌30日も、時折雨がぱらつく寒い日だったが、1日パリ観光。まずモンマルトルの丘にでかけたが、朝早く小雨だったので、画家の卵達は誰もいなかった。パリ市内で唯一のブドウ畑(写真1)や、サクラクール寺院(写真2)を見学した。ガイドに「スリが多いので注意しろと」は言われていた。実際、サクラクール寺院の前でメンバーの一人が2人の黒人に囲まれたが、危うく逃れて事なきを得た。
 

写真3・4
 

その後ルーブル美術館へいったが、バスでそのままルーブルの地下駐車場に乗り込んだのは、初めての経験だった。ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」、デヴィッドの「ナポレオンの戴冠式」、ダ・ヴィンチの「モナリザ」、サモトラケのニケ、ミロのヴィーナスなど有名な作品を1時間半ぐらいで駆け足で回って疲れた。昼食はオニオンスープと平目のムニエルだったが、ビールとワインを飲んだらその後どっと睡魔が襲ってきて、エッフェル塔の前で写真を撮って(写真3)後、ホテルに戻って昼寝。
 

写真5・6

 
夜は8時から10時半頃まで貸切の船で、セーヌ川ディナークルーズ。シテ島とエッフェル塔の間を行き来して、フォアグラやイベリコ豚のステーキ(写真4)にワインを楽しんだ。特にエッフェル塔のライトアップが美しく(写真5)、午後10時の花火の様な点滅(写真6)が美しかった。最後は皆で歌って、ホテルに戻って熟睡した。

5月1日は天気も良く、奥さん達は7時にロワール地方へのツアーに出発。団員は11時からのマドレーヌ寺院でのミサに参列して、活動開始。マドレーヌ寺院はサンサーンスやフォーレがオルガニストを務め、グノーの葬儀が行われたところでもある。
 

写真7・8

 
約1時間のミサで、イギリスから来た大学生の混声合唱団が聖歌隊を務めていたが、寺院の響きに包まれた美しいハーモニーを奏でており、聴き惚れていた。ミサの内容はフランス語なのでさっぱりわかなかったが、荘厳な雰囲気だけは味わえた。正面入り口に催し物のポスターがあり、2日の我々の演奏会も宣伝してあったが、歌う曲がフォーレのレクイエムと書いてあり(写真7)、一同そこから複雑に地下鉄を乗り継いで、国際大学都市の日本館に辿り着き、昼食の鮭弁(鮭の切り身が大きかったが、ご飯に卵焼きと日本のと全く同じ)を食べた。日本館の練習会場には、藤田嗣治が1927年に描いた3枚綴りの大きな絵(写真8)があり、感激した。三澤先生と、「三つのイタリア語の祈り」を伴奏してくれる賛助出演のアンサンブルCOGEのメンバーも到着して、早速練習開始。三澤先生は COGEのメンバーに、フランス語で指導しており、さすが世界的な音楽家と感心。

練習は5時半頃終わり、3日の演奏会場のサンジェルマン・ロクセロワ教会まで地下鉄と歩きで行って、7時からのミサに参列した。ここは女声聖歌隊がグレゴリアン風のミサ曲を歌い、非常に良く響いていた。相変わらずフランス語で意味が全く解らず、居心地が悪かった。奥さん達もツアーから帰ってきて、ミサに参列した。マドレーヌ寺院も、サンジェルマン・ロクセロワ教会も、床が大理石で、下から冷えてきて寒かった。

ミサが終わって、また地下鉄でホテルに戻り、近くのイタリアン・レストランで皆で食事した。ピザは大きく、1枚で日本人なら2~3人前ある。クワトロ・フォルマッジョを注文しハチミツを頼んだが置いてなくて、味も用賀のマルデナポリの方が美味しかった。
5月2日は、奥様方は9時からまたパリ観光に出かけ、団員は演奏会場のマドレーヌ寺院に4時集合と時間が空いていたので、一二三会の仲間と、パリに来ると必ず訪れているオランジェリー美術館へ地下鉄で出かけた。ところが美術館のあるコンコルド駅が工事中で止まらずに通過!日本では考えられない出来事に唖然として、次の駅から一駅歩いた。美術館は朝早かったので空いていてすぐに入れた。モネの睡蓮の部屋(写真9)は、行くたびに心が落ち着く。ここには私の好きなルノアールもたくさんあって、腰が痛くなるぐらい見て回った。その後観覧車に乗ってパリの街を上から眺め、オペラ座の近くまで歩いて、「ヒグマ」で味噌ラーメンを食べた。ホテルまで歩いて、昼寝して英気を養い、いざ出陣。
 

写真9・10

 
4時からマドレーヌ寺院でリハーサル。合唱団がどの位置で歌うと全体に響くのかチェックしながらの練習と、COGEアンサンブルとの「三つのイタリア語の祈り」のあわせ、賛助出演のCOGE声楽アンサンブルのリハーサルもあり、開演は夜の8時30分だった。プログラムには、奥さん達が折った平和の祈りを込めた折鶴が挿み込められている。無料の演奏会なので何人の聴衆が来るのか心配だったが、大きな聖堂の半分以上、約300人の聴衆で、ホッとした。第一ステージは酒井雅弘さん指揮のグノーの第二ミサ。三木蓉子さんの弾くパイプオルガンが真後ろで音は取りやすかった。しかし奥さんの評は、「合唱団の立つ位置の問題か、たくさんの聴衆が入って音が吸収されたのかはわからないが、合唱の響きが悪かった。緊張のためか、皆の顔も固かった」。第二ステージはCOGE声楽アンサンブルで、15人の混声合唱団だが、一人一人柔らかい美しい声で、ブラームス、フォーレのハーモニーを美しく奏でていた。第三ステージが、三澤先生作曲、指揮の「イタリア語の三つの祈り」で、平和の祈りを込めた迫力のある演奏は、寺院いっぱいに響き渡り、私も歌いきった感があった。

聴衆はスタンディング・オベーションが出るほどの大拍手で、奥さんの評も「皆の緊張も取れて、バランスのとれた良い演奏だった」。アンコールはフランス語の「O Nuit!」と日本語の「ふるさと」。「ふるさと」は、会場でフランス人も歌えるように楽譜とローマ字読みの歌詞が書いてあり、多くの日本人聴衆も大声で歌っていた。終了後、日本人の老婦人に「とっても素晴らしかった。ふるさとを久しぶりに歌って感動しました」と話しかけられた。
その後打ち上げパーティがあり、現在海外に住んでいるOBもパリまで聴きに来てくれて参加した。今パリに住んでいる木戸さん、ドイツ駐在の宮園さん、昨年ポルトガル旅行した時にお世話になった高川さんなど、久しぶりに会って懐かしく話しをした。しかし長い間冷えた大理石の上にいて身体が冷えたため、持病の麻痺性腸閉塞の軽い発作が起こり始め、全く飲食ができず、早めに引き上げてすぐに寝た。

翌3日は、少し調子が良くなったので、ヨーグルトだけ食べて、皆とは別行動で、2年前にフランスに来た時にガイドしてもらった網屋さんに、藤田嗣治のアトリエ兼住居を案内してもらった。パリの郊外約30kgの南西にあるヴィリエ・ル・パークル村まで、車で約40分だった。天気も良く、まず藤田の墓を案内してもらった。小さな墓地に花や飾りが乗った美しい墓がたくさんあったが、藤田のは奥まったところにある素朴な墓だった。遺体は今はランスに移されているという。藤田のアトリエ兼住居(写真11)では案内の青年が、まず藤田の生涯をまとめたヴィデオを見せてくれて、日本語の音声案内で一つ一つの部屋をみて回った。地下1階が台所と食堂、1階が居間と寝室、2階がアトリエになっていて、各部屋に藤田の作った小物や、藤田がノミの市から買い集めた物が飾ってある。アトリエには、筆、絵の具、額、ミシン、貝殻、シッカロール、もち粉などがあり、ランスの礼拝堂の下書きのフラスコ画が置かれていた。広い庭には一面白い野草が咲いており(写真12)、小さな家で藤田が晩年を穏やかに過ごしたことが伺えた。
 

写真11・12

 
その後奥さんの趣味の墓地巡り。パッシィ墓地で、フォーレ、ドビュッシーと、マネとモリゾーの眠っている墓を探しあててお参りした。私はやはり麻痺性腸閉塞の具合が良くならないので、その後ホテルに戻って昼食も取らずにひたすら寝た。
4時30分に今夜の演奏会場のサンジェルマン・ロクセロワ教会に集合。ここも寒いので、ホッカイロに腹巻2枚、ズボン下にハイソックスを2枚重ね履きしてコートも羽織り、万全の防寒体制で臨んだ。おかげで麻痺性腸閉塞は悪化せず演奏会を終えることができた。小さな教会なので聴衆は100人ほどだったがほぼ満席で、パリの小児内分泌医の友達のジャン・クロード・カレルが家族と友達を連れて聴きにきてくれた(写真13)。ガイドの網屋さんも何人かの友達に緊急で連絡して聴衆を集めてくれて感謝。

7時から始まった第一ステージはパリで教会の歌手として活躍している坂東宏美さんとマリア・アンドレア・パリアさんによるグレゴリオ聖歌で、美しい声がドームに響き渡った。パイプオルガンとの演奏もすばらしかった。第二ステージがグノーの第二ミサ。合唱が教会の中央のドームの下で歌い、酒井さんが少し離れた高い説教台から指揮をするという前代未聞の演奏だったが、皆が上を見上げて歌い、自分の声も良く響いて聴こえて歌いやすかった(写真14)。オルガンと離れたため若干音が下がった箇所もあったが、皆のグノーにミサに対する想いが表れたか、スタンディング・オベーションが出たほどの反応だった。奥さんの評は、「皆が上を向いて活き活きとした表情でうたい、声も良く響いた」。アンコールの「O Nui!」も、坂東宏美さんとマリア・アンドレア・パリアさんに我々がバックコーラスをした「アベ マリア」も、大拍手で、最後に聴衆と一緒にふるさとを歌い、コーダの最後のAの音を高々と歌い上げて、演奏会は終了した。

 
打ち上げでは体調も少し戻ってビールにワイン、ムール貝を楽しむことができた。その場で指揮者の酒井さんから「グノーの子孫の方々が聴きに来られていて、2年後がグノーの生誕200年にあたるので、また来て欲しいといわれた」という話に、一同大盛り上がり!
何年か前に団員の広畑さんのグノーの第二ミサを初演した教会で歌おうという企画をやり遂げてしまった酒井さん、三木さん始めウボイの会の皆さんの力に驚くとともに、賞賛の念を禁じ得ない。企画に参加させてもらって、ミサをヨーロッパの教会で歌うという大きな感動を与えてもらい、大いに感謝している。
 

写真13
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